昭和44年07月07日 朝の御理解



 御理解 第49節
 「信心は相縁機縁。」

 信心は相縁機縁。まさしく相縁機縁だと思います。例えば私と皆さんとの縁というものも実に相縁機縁であります。そこで不思議な言わば御神縁に相縁機縁。不思議な御神縁を頂いて合楽のお広前にお引き寄せ頂かれるようになられた。そしてここの中心であります私との縁も段々こうしてみえる訳なんです。わざわざ遠隔地からこんな田舎の合楽に、合楽にと皆さんが集まって来る。どんなにおかげが受けられると言うても、こんなにおかげの受けられる道があっても、教えて頂いておってもね。
 縁がなかならければどうにもしかたがない事。縁あればこそこうしておかげを頂いておるね。縁あればこそというその縁が相縁機縁である。そこで折角こうしてご縁を頂かれたのであるからね、合楽にご縁を頂いたおかげで、このような事が分からしてもらえ、このような生活が出来るようになり、このようなおかげが受けられるようになったと。合楽でおかげを現しておる通りのおかげを、皆さんも受けて欲しいと思うんです。私と皆さんとのまぁ縁がね不思議な縁によって結ばれたのでございますからね。
 合楽に縁を受けた合楽の先生との縁が出来た。そのおかげでこういうおかげが受けられる様になった。こういう生活が出来る様になった。と私がここで頂き私がここで現しておるおかげを、皆さんもですその通りひとつにおかげを頂いて欲しいんです。唯機縁であったと。唯ある時にあんな事でお参りをして、何回かお参りをしたと言った様な事でね、縁がお終いになっておるしまう様な事がないおかげをひとつ頂いて欲しいんです。
 その言わば御神縁とも思われるその御神縁をいよいよ、なるほど御神縁であったなぁと御神縁たらしめて欲しい。不思議な事ですよね。沢山な金光様の信心と言うても、全国津々浦々に教会がございます。皆さんの近所にも立派な教会がいくらもある。そこを言わば素通りして合楽に参られるんですけども、確かに相縁機縁であります。ですからその事をひとつ本気で思わして頂いて、不思議な縁じゃあるという事を分からしてもろうて、どうしてこういう縁が出来たかと。
 御理解99節、無学で人を助けられんということはない。学問はあっても真がなければ人は助からん。学者が身を食うというが、ある学問があっても難儀をしておるものがある。この方は無学でも皆おかげを受けておる。とこういわれるようにこの方無学であっても、いわゆる合楽の中心である私いわゆる大坪総一郎は、もう本当に無学同様の私ではあるけれども、何ぁにも出来ない私ではあるけれども、皆んなおかげを受けておると言うおかげに、繋がらなければならないね。
 人格的に言うてもね、教養点においてもね、どういうとこを取ってもまぁたいした秀でたって言った様なものはない。本当に無学の百姓であり、なんにも出来ん私であるということですよ。無学の百姓と。そのなんにも出来ない私のところで、それでもこの様なおかげを現すことが出来るおかげを頂いておる。皆んながおかげを受けておると、その皆んながおかげを受けておると言う、その皆んなに皆さんがなって頂きたいと思う。今合楽で御神縁を頂いておられる、その縁をいよいよ生かしてですね。
 私が頂いておる内容と私が現しておるおかげという。そういうおかげを皆さんには現して下さる。そこにですね、合楽に縁を頂かれた意義と言うものが出来て来るんです。じゃなかったらどこの教会でも良かったんですね。これはよそにはよそのおかげを現しておられる。そういう姿がある訳です同し金光様でも。そして合楽には合楽だけの、言わば独壇場とも思われるような、おかげを現してここではおるのです。そういうおかげに縁が繋がらなかったら、それはただ何と申しますかね。
 いわゆる縁は異なものと言う様な事になってしまうでしょう。縁っちゃ不思議な事じゃあるというだけの事である。その不思議な事が縁がですいわゆる味なものと。合楽で現しておられるようなおかげをです、自分達の家庭の上にも現していく事が出来る。まぁ私は様々におかげを頂いておる、現しておるということ様々にありますけど、なんと言うても私がお金やら物やら食べ物に不自由しないということでしょうね。まぁ私がおかげというなら。食べ物やら物やらね、お金やらね。
 もう限りなく不自由してない事だろうとこう思うんです。しかもまぁ言うなら行き当たりばったり的なものではなくてです、もういつもこう余裕があるですね。例えば私昨日久富さんがお茶の棚を整理しておられるのを昨日始めて見た。はぁあんたこげん沢山まだあったのっち私が申しました。玉露だけでも。はぁ先生こりゃみんな玉露ですよっち言う。しかも全国のあっちこっちの、いわゆる銘茶と言われるその玉露がですね、宇治のお茶があり、八女のお茶がある。売る人のお茶があるというようにですね。
 はぁこりゃいっちょしっかり頂かにゃね。これはお茶だけの事ではありません。もう人間生きていく上の全ての、全ての事にです。言わば有り余る程しの勿体無い程しの言わばおかげを受けておると言う事ね。これはこりゃよそ様には出来んと言った様な、まぁ横着な気持ちじゃありませんけれども、まぁ合楽のおかげと言うなら、これはもう見れば分かる事なんです。だからそういう皆おかげを受けておるという、皆さんがです合楽のご信者さんだけはもう、お金だけには物だけには、皆不自由していないなぁ。
 とですね私言われるようなおかげを頂いて初めて、縁が生きて来たということになるのじゃないかと思うのです。そう言う縁に繋がらなければいけんのです。私今日一番始めにこの99節を頂いて、あの皆がおかげを受けておるというここだけを頂いたんです。だからです、これに対する御理解どこを頂くのかと思って又頂いたら、49節。信心は相縁機縁ということを頂いたね。そしてからいよいよ今は皆さんが例えば飛びつくような、しかもおかげですよね。今私が今申しました事は。
 はぁ私もそりゃもう物やら何んやらは良かけんで、もう金だけでもいいからいっちょ無尽蔵に、不自由せんだけのおかげを頂きたい。どれか一つでも良いからおかげ、その繋がりたいと誰でも思うようなおかげです。それにはねそれにはんなら、これにもまた繋がらなければならないということです。第49節である。第99節である。49節というのをこれをしじゅう9節とも言えますね。始終9節ということは、いつもが何時もが何時もが苦ということ。始終ということはいつも。
 それを私はひとっつも苦としていないということ。それを全部おかげとこう頂いておるということ。良かですか。これだけは私が頂いて現しておるおかげ。お金に不自由しない、物に不自由しない。食べ物に不自由しない。まだ他にもいろいろありましょうね。言うならば、衣食住の全てに不自由していないと言う事も言えますでしょうね。しかも不自由してないというだけじゃない、勿体無いほどしのおかげを受けておるという事でしょう。そういうおかげがですね。
 縁がなかならければ、先日秋永先生が、昨日一昨日の壮年部会の時に言っておられました。今合楽でも私共が信心しておる、信心の様子を信徒会当たりで話してもですね、誰ぁれも実感的にですね、ほうんならひとつ例えばそげなん真似をしようと言った様な、雰囲気が全然生まれずに却ってそげなん事は出来んと、いう雰囲気ばかりしかないと言われるです。言うようにこれだけは合楽だけにしかないというようなおかげがある訳です。それにはです私共がです、日々の生活の中にどういう中にあっても。
 その例えば始終苦ずうっと苦るしい事であっても、その苦しい事を苦しい事とせずにですね、それを有り難いとか勿体無いとか、本当におかげで修行さして頂くと言う様な、心の状態で受けて行くという事。これもだから私、私のそういうおかげの元はそういうところにあるのである。この99節というところもそうである。恐らく私は生涯99節であろうとこう思うんです。
 何故って私の百というおかげっていうのはもうそれこそね、先生ある人が大坪先生お宅もこんなりっぱなお広前が出来て、安心が出来なさったですね、とこう言う。本当に有り難い事だ嬉しい事だ目出度い事だとこう言う訳なんです。ところが私は嬉しいとも有り難いとも、目出度いともそう思うとらんです。何故ってまぁだ願いは向こぅの方にあるからですよ。まぁだこれでも99節だと私は思うとるからです。だからもう一つ私は超えたら、というそのいつもこのいわゆる、教祖様の仰るいま中です。
 今がまだ真中という頂き方なんです。だから99をいとわない。苦に苦が重なると言う事を厭わない。早うこの苦の中から抜け出たいと言う様なものじゃない。いつもその修行の中に甘んじておるというよりも、この事を有り難いと思うておる。皆がおかげを頂いて行く為にはですね、49節も厭わない、99節も厭わないと言う事になる。昨夜も企画委員会がございました。遅うまで十二時近くまでなさっておられましたでしょう。
 終わりまして皆帰った後に文男先生が、沢山あのう着物の仕立てが出来たからというて、沢山昨日持って来て下さって。まぁそれを全部見せて頂いて。豊美のもあります中に、家内のも何枚もございました。それで娘達と話しました。昨日は先日からの吉井の熊谷さんのところからも、それこそもう一う抱きも二う抱きもあるしこ、沢山な着物を150年から百年ぐらい経ったという、着物を沢山持って来て頂いたんです。もうそれはもう、本当に昔だったら目も綾なそのう着物だっただろうと思うですね。
 金糸銀糸がもう散りばめてあるような着物から、もう殆どですねしょうの抜けておるのも幾らもございましたけれども、麻類ですねこの、麻類なんかは全然抜けてない。昨日文男さんそれを申しておりましたが、仕立てにあってですね、大体もう染料は絶対この、100年も前の染料はないそうですよ。まぁ麻はね大体はあらなければならんのに、こういう素晴らしい織り方をしてある麻はまだ見た事がないって縫う人が言うたそうです。それを見た時にゃ、まぁ本当にまぁボロのような感じでしたけれども。
 私がこれとこれは素晴らしい、こりゃもう新しい感覚で100年前の模様た柄とは言えない。こりゃ必ず家内に似合うばいっち言うて言うとりましたから、文男さんもそれを感じたらしいです。だから四・五枚持って帰ってそれを洗い張りにやって、仕立てて来たらもうそれはそれは見事な着物が出来て来てるんでよ。でそれを一枚一枚見せて頂いてから娘達と話す事ですよ。見てご覧お母さんが一生懸命修行しなさってから、一生それこそ布一寸買いませんという修行を一生懸命してござったが。
 見てご覧もう嫌が上にもういらんちゅう位に、おかげまぁ頂きござるじゃないかって言うてですね。しかもこの着物着て見なさいっち言うて着せてみよったです。ならこれどげな帯や。もうそれこそこの着物にはこの帯ばかりじゃいきまいちゅうごたるそのきちっとした帯が、ちょっとお供えにきておる訳ですよね。帯締めはもう縦横手提げのその持ち物まで、あぁあげんとば頂いとったが、昔こげなんもん使われんと思ったが、出して来てみっちて出してきたその、例えば袋物がですね。
 その着物にまたぴったりと言った様な感じなんですよ。それを見せて頂きながら私は娘達に言うんです。お母さんがねこれだけの修行をして来なさったから、今はもういらんちゅう位におかげを頂きよんなさるがと。もう式服から何んから一切今度はおかげ頂いとるです。こりゃあもう本当に見事な事です。そういう例えば私なんかはこりゃもちろんもっともっと前からです。それこそタンスに幾棹もですね。
 あぁタンスのお供えを頂いたが、また着物が来るじゃろうと言いよると、早速そのタンスに着物が詰まって行く程に沢山頂いております。しかもまぁ普通不断どん着ちゃ勿体無いちゅうごたる着物ばぁっかりです。例えばこれ衣食住の衣だけでもそれこそ限りがないのですよ。頂くということには。神様が下さるという事においては。しかもこれはお母さんお前やぁ、この着物は100年も前にお前が着る為に用意してあったつばい。って話した事でした。
 それがですね余っ程熊谷さんのお婆さんのお婆さんの着物らしいんですよ。それが私の家内よりも小まくはなかったじゃろうかちゅごと、その着物が一杯いっぱいに小さいんです。ですからそのまた家内じゃなかならければだからいけん訳です。これならずうっと熊谷さん私が今着なさるならね、じゃろうと思うけれどもその、布が足りないのだろうとこう思うんですね。そういう例えばそのおかげ、本当に100年前に神様が用意してござったと言わにゃおられん程しのおかげを頂いて。
 まぁだ沢山ありますから、あん中にどう言う風に生かされるものがあるか分かりません。この頃家のお爺ちゃんもですね、そこのお婆さんが着ておりましたから、あのう麻の素晴らしい麻でしたが、それでその上下ですね作ってもろうたんです。ズボンと上からこう着る夏に着るのをね。ま純麻ですから夏の。だからそういう例えばおかげを頂いておると、皆さん帰られて、私また最後にここへお礼に出て参りました時に、その事を思わして頂いた。ほんとに神様のおかげっていうのは無尽蔵だな。限りがないなあ。
 しかも今時いくら金を貸して買うと言うても、まぁ買えない。文男さんが言うておりましたが、今ごろこれは五万円出したっちゃなかっちそげなな着物。例えば麻ぐらいじゃからこの程度っとの五万円である、ぐらいであるらしいです。けれどもこれと同んなじ物を、こんな素晴らしい染料でしてある麻をっち言うったっちゃなかっち。あぁこれもう一枚が五万円もすろがたる着物っち言うたら、それこそお供えした熊谷さんも喜びんなさるって言うた事でしたね。
 そういうおかげを受けてここに私お礼に出てまいりましたね。食べる物だけじゃない、飲むものだけじゃない。もうそれこそ限りがない程に、しかも一番最高の。先ほどお茶ならお茶のことを申しましたが、さぁならこちらの棚をもし開けたらです、それこそ世界の名酒が一杯詰まってますよそこには。本当にそうですよ。だから合楽の話はですね、ほんことじゃなかごたるです実際見よらんと。しかしそういうおかげに今日皆さん繋がって頂きたいっちゅう、私はお話をしてる訳なんですね。
 相縁機縁で出来たんですから。その為にどうぞ始終苦節を大事にして下さいよ。99節を大事にして下さいよということになるんです。先日壮年会の時にもお話があってましたようにね、昨日も私そこを申しましたようにです、とてもとても合楽の信心ばっかりは人が真似でん出来るこっちゃないが、とても本当に今日でもそうですよね。朝参り昼参りしてからまた夜、企画で皆出て来ておられますからね。言うならばもう掛かっとかないかんでしょう。私はその事も昨日は合わして思うたんです。
 夜御祈念をさして頂いて。本当に皆さんが皆帰って行かれた、十二時ごろから帰って行かれたが、また明日の朝の御祈念には参って来る人があん中から参って来る。昼の信行期間にはなおさらまた参って来るだろう。もう確かに先日から話が出とったように、合楽の信心ばっかりはとてももうきりがない。そう思うたらですね。私の御心眼に頂く事がね、あの食パンねパンです。食パンのこう一切れ一切れ切ったやつがあるでしょう。切り目がついたやつ。それを頂いて御理解に頂く事がですね。
 一切れ食べてねもう一切れ欲しいと思う時には、まぁだいくっつでん繋がっとるというおかげが。いわゆるパンという事は飯、飯になるということでしょう。あぁこれだけままになったから、もうまぁちっと欲しいなぁと思やぁ、まぁだままになるものは一杯繋がっておる。いわゆる限りのないゆとりのある。余裕のあるおかげ。この一切れのパンのあれがあればよい。もうこれだけが飯んなればよいというのではなくてです、一切のおかげがです、もう限りなく頂けれる事の為にと言う事を頂いてです。
 こりゃあ3べん参りが5へん参りになってもいいなっと私思いましたよ。どんな修行してもらってもいいなと私思いましたよ。とてもそげな修行は出来んということはなかです。神様が下さろうとしておるおかげは、そういうこちらも限りのない人間の力と言うかね、いわゆる人間の力の限界ということころ迄です、こちらがいっぱしのおかげを頂かして頂くということがです、そういう必ずいっぱしのおかげに繋がるんだということになって来るとです、あん時もう一修行しときゃよかったと。
 言わんで済む様な後悔のない修行を、本気でしとかないけんなということです。だからもう修行っていうのはもうこれで良か時は、こげんこげんいっぱしごとは絶対ないことがわかるですね。限りのないおかげが受けられる事のために、本当に普通思うならば、もうそげん迄はせんでんというごたる、信心でもさして頂いとかなければ、実を言うたら馬鹿らしか。そういう信心を私はさして頂いて来ておる。また現在でも同じ意味の事が言えるね。そういう例えば修行を厭うては、その修行との縁も繋がらなければです。
 おかげの方だけ繋がると言う訳にはいけんのだと。それで神様そのいつになったらそのそういうおかげが受けられるでしょうかって、私は昨日はお伺いさして頂いた。夕べ。それぞれが一生懸命信心さして頂いておるが、そんなら神様そう言う様なおかげがいつになったら、んなら銘々が頂けれでしょうか。それこそ皆がおかげを受けておると、こう言う様なおかげをいつの事でしょうかと、私思うた思うたらですね。ちょうど何と言うでしょうかね、まぁ天地の親神様のお母様のお姿でしょう。
 昔の人が着るような、そのう打掛を着たような方がですね、その打掛のような着物をね、こう今にも肩に着せ掛けてやろうとしておられる姿を頂くんです。ところがそのう着ろうとしておる人が小さい子供なんですね。ですからこれじゃ覆いかぶせるごたる風じゃん。却ってそれを自由にしきらん。そういう着物はかえって迷惑です。皆さんが今はおかげをおかげをと言うとるけども、皆さんが今例えばそういうおかげを頂いたら、そのおかげの為に皆さんが窒息してしまうです。ほんと言うたら。
 ですからいかにです、私共の信心がもう少し育ち、もう少し豊かに大きくならなきゃならんかということが分かります。その着物神様が着せて下さろうとしておる、神様が下さろうとしておるおかげを頂く為に、私共がもっともっと豊かに、大きく育たなければならない。その着物を着てもはぁ丁度良いと言う様な、おかげを頂いた時にこそ、初めて神様が着せ掛けて下さるのですから。その間を修行期間と思うて一生懸命信心を、もうこれで良いということはない。限りなく育てて行かなければいけない。
 例えばいつもが始終苦であってもね、例えば泣き面に蜂と言うに苦が苦が重なるような時であっても、そこんところをです、私が豊かに美しゅう受けて行けれる心の状態というものを、いよいよ頂かしてもらう事に、精進しなければならないという事になる訳ですね。信心は相縁機縁不思議な事だ。同じ金光様のご信心を頂いておっても、沢山の教会の前を通って合楽におかげを頂いておるという事。というて足元におっても、例えばご縁の頂けない人は頂けない。相縁機縁ですから。仕方がない事。
 だからそういう足元におってもご縁を頂けない程しの事の中に、私共のこういう遠方から参って来ておる私達が、ご縁を頂いたという事に一つの大きな不思議を感じてですね。それをただ相縁機縁で合楽にお参りをしておるというだけでなくてね、そこでおかげが現されておる、おかげを受けておるそのおかげとも縁が繋がらなければいけない。為に四十九節であり九十九節である。そこに信心の育ちというものがあるのです。神様が本当に下さろうとしておるおかげ。
 んなら合楽でおかげを受けた時のいわゆるおかげの頂けれる、いわゆる暁とでも申しましょうかね。は、それこそ物には不自由しないお金には不自由しない。いわゆる人間の幸せには絶対なしには出来ない物衣食住がね。その衣食住の徳が身につかしてもらえれる、おかげを頂いてこそです、合楽にご縁を頂いておったという、値打ちがある訳なのです。だからそこんところのおかげを頂かなければです、とてもあげん信心せんでもおかげは頂かれる。あげん参らんでんおかげは頂かれる。
 いや合楽の中にでも沢山そういう人達があります。だから現在そういう皆んなからあげんまでせんでんと、言われる程しの信心をしておる人がです、本当にそういう徳を受けて貰わなければならん。皆おかげを受けておるというおかげになって貰わないけん。どうぞ神様の仰る事をですね、教えて下さる事を皆さんが信じなさいね。あの信じなさい信じなさいと言うてもですよ。あのうそげん言うたっちゃ信じられないと言うではなくて、合楽の場合、こちらお話さして頂いておる事でも、昨日そのパンの事でもです。
 はぁ神様のその心の表現して下さるとそういう事になる。どうでもその一次元のパンじゃない。いくつでも繋がっておるそのパンのおかげを頂くためにです、神様の御神意に沿うた信心を本気でさしてもらおうね。これで良いという事はない。信心しよりゃあこれで良いとかない。疲れを知らん信心をさしてもろうてですね、限りない信心の徳を今こそ積んでおらなければならい。そういう信心にも、私の縁に信心に繋がるというより、私自身がそれを通って来ておるんですから。
 私自身がそこをおかげ頂いておるんですから、そのおかげの方だけじゃなく、そこんところにも繋がっていって初めて、私はねおかげは受けられるんだと言う風に思うんですよね。信心は相縁機縁。その相縁機縁はですねただ縁は否物、というだけに終わらせずに本当に縁を味な物にしていく為に、皆さんの現在の修行があると私は思うのです。そして神様が下さろうとしておるおかげ、このおかげはもう絶対な物。大人が着る洋服をですよ、子供に着せたっちゃそれこそおかしいでしょうもんねぇ。
 ですからそういう立派な洋服が欲しいなら、やはり大人にならなければいけません。信心でも同じ事ね。信心がいつ迄も幼稚であってはなりません。やはり信心が育たなければいけない。そこに初めて神様もそれこそ着せ掛けようとしておられる、着せ掛けて神様も喜んで下さるのですから、それを着せて頂いてそれに袖を貫かせて頂いてね、見事な着物を着せて頂いて、こんな有り難いおかげを頂かしてもろうてと、お礼の言えれる信心。そういうおかげを皆に、皆おかげを受けておるとおっしゃる。
 合楽の信奉者の全部がね、そういうおかげを受けて下さる事を私は願いとしておりますね。ですから皆さんがまずそう言うおかげの受け始めになって頂く為に、なら私が頂いておるその修行にもやはり繋がらしてもろうて、人が笑うてもそしってもがまん。ちょっとぼうけちゃござらんじゃろうかと言われてもええ。私そこの信心を本当に生き生きとして、頂き抜かして頂かなければいけんと思うですね。
   どうぞ。